2006年02月27日

週末は。

先週の土曜、鎌倉街道で信号待ちをしていたら、チンクのエンジンが停止した。
エンジンの回転が次第に遅くなっていき、ついにエンスト。
いや、焦った。
3車線の真ん中の車線で前後左右をクルマに囲まれての信号待ちでエンスト。
何度かエンジンの再始動をかけたけど、うまくかかってくれない。

信号が青になる前に周囲に知らせないとマズイと思い、
エンジン再始動を諦め、クルマを降りた。
後続車に合図して、クルマを押す。
幸い、道路沿いにガソリンスタンドがあったので、そこへ緊急避難できました。
いや、クルマ止まったから、即座に降りてクルマ押してガソリンスタンドへ入れるなんて
普通のクルマじゃできないよね。
これもチンクが軽いからこそできた業。
感謝していいんだか・・・。

ガソリンスタンドでしばらくエンジンを冷やすと、あっけなにくらい簡単に
エンジンが始動してくれて、その後問題なく走行しました。
しばらくは怖くて、無茶な運転はできなかったけどね。

原因は不明。
以前入院した際に、エンジンの空冷構造に手を入れたんだよね。
もともと空冷のチンクのエンジン部分は、エンジンが熱くなってくると
エンジンに設置してある蓋が開いて、熱い空気を逃がす構造になってる。
といっても、ただ単純に熱伸縮性のあるパーツがエンジンの蓋を開け閉めするだけという
気が抜けるほどシンプルなものだけどね。
先日の入院の際に、伸縮パーツを交換したんだけど、
どうもそれがうまく作動しなくて、エンジンルーム内の熱が逃げなかったのが原因かも
しれない。この寒い中、オーバーヒートするものかとも思うけど、
とりあえずチンク屋で見てもらうことにした。

この日は金管バンドの練習の日で、少し遅刻になっちゃうけど、
もし練習帰りなんかにエンストしたら、そのまま見知らぬ多摩の大自然の中
夜明かしせにゃイカンという事態に陥るからね。
※川崎の多摩地区は、住宅地域と緑地地帯が近接していて
夏なんかには横浜ではあり得ない濃霧や豪雨雷雨に見舞われたりするからね。

第三京浜を時速80キロで爆走して、港北ICからチンク屋へ。
高速道路も問題なく走るチンク。
う〜ん、あのエンストは一体なんだったんだろう。
チンク屋で早速エンジンルームを覗くと、特に異常はない模様。
点火系のコイル部品にオイル漏れがあったけど、エンストとの因果関係はなさそう。
やはりエンストの謎は深まるばかり。

ちなみに、点火系部品のオイル漏れについては、
商魂逞しいチンク屋の社長さんから現行のイタ製部品から国産の部品への
変更を打診され(3万)、いや、もっと高度なシステム(7万)を薦められ、
う〜ん、今年はチンク祭にも行きたいし、春にもイベントがあるかもしれないし、
今年こそはETCを取り付けたいと思ってたので、ちょっと考えちゃうね。
現状のイタ製部品の交換だけなら、1万そこそこだしね。
※社長の言、「いやぁ、ウチでメンテしてるクルマの9割は国産パーツだね」云々。
その後の雑談で「だから、国産パーツにしちゃいなよ、ウチで扱ってるクルマの8割は
このパーツ使ってんだから」・・・って、さっきより1割減でないの?!
ホント、コワイわぁ。
posted by しゅんすけ at 19:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月22日

読書感想文以前。

1月中旬に某書籍通販サイトのア○ゾンで、さきこがCDを発注するついでに、
しゅんすけも以前から読みたいと思ってた本を注文することにした。
CDも本も取寄扱いだったけど、ま、それほど時間はかからんだろうと思ってたら、
CDの取寄せに思いのほか時間がかかるようで
2月もそろそろ終わりになろうかという今日になっても、届く気配がない。

どうも原因はCDの方で、洋楽ということもあって、
海外から取寄せしてるみたい。
それでも、海外から取寄せるって、どうやったら1ヶ月かかるねん。
まさか船で運んでるわけでもあるまいし。

前回読了した「博士の愛した数式」以降、
できれば数学関連の本が読みたいとは思ってて、
今回ア○ゾンに注文したのも、数学に近いお話しなんだけど、
こういった事情でまだ手元にないので、
3年前に読んだ「フェルマーの最終定理」を再読している。

いや、何度も言うけど、秀逸な本だわ。
しゅんすけのような算数バカでも、分かりやすく書いてあるもんね。
しかも、それでいて数学史の重要なポイントは押さえてあって、
この本以降いくつか数学関連の本を読んだりしたけど、
数論に関してはだいたいこの本のどこかに書いてあったことだったりしたしね。
(ま、それだけフェルマーの最終定理が数論全体に大きな影響を持っていたということ
なわけだけどね)
そんなわけで、再読を始めて、以前気づかなかった新しい発見を楽しんでた。

そんなある日、別に本を買うわけでもなく通り過ぎた本屋で、ふと本を見かけた。
別に探してたわけじゃないんだけど、
素数に関する本が一般の新書版なんかと一緒のコーナーに置いてあった。
「素数の音楽」
う〜ん、大抵はこういう本って、数学書コーナーに、題名だけでも頭痛がしそうな本と
一緒に置いてあるものだけど、何ゆえこんな場所に?
ふと手にして目次を見ると、今まで読んできた数学本で出てきたエピソードが
いくつも見られ、しかもテーマは「リーマン予想」。
ヒルベルトが20世紀に解決すべき問題として演説した23の問題のひとつで、
どうも20世紀中に証明が得られなかったのは、リーマン予想だけなんだそうで
しゅんすけもついにリーマン予想に手を出す日が来たかと思って感慨深かったね。

※既述だけど、1900年当時なお未解決の数学的命題は、
知識やツールが未熟だから解決できないだけで、今後数学の着実な進歩により、
将来的には解決されるであろうというヒルベルトの大々的な演説も
10年後には数学の「不完全性定理」の発見により、
「解決できない問題が存在する」ってことになっちゃって、
ヒルベルトの言う知識やツールの未熟以外に、「そもそもこの問題は証明し得ない」という
結論もありになっちゃったのが、数学界では大事件だったわけで、
大風呂敷で豪語しちゃったヒルベルトさんの悲哀を思う。

以前からリーマン予想は分かりにくいと思って、尻込みしてたけど、
分かりやすく書いてくれてるなら、ちょっと読んでみようと手に取ったのでした。
なんせ船旅への不安から、神が自分を死なせるわけにはいかないような状況を
作り出そうと、「リーマンヨソウ、トケタ」の嘘の電報を打った数学者も
いるくらいで、しゅんすけ的にも興味はあったんだよね。
本屋ってのは、こういう出会いがあるからいいよね。
ア○ゾンじゃこうはいかないだろうね。

そんなわけで最近は遅読ながら、この本を読んでます。
出会っちゃった本がみんな当たりかというとそういうわけでもないんだけど、
今回の本はちょっと当たりっぽいかな。
楽しみだけど、数学界の最後の秘宝リーマン予想は、はてさて読み切れるものかどうか。

そんな中、ア○ゾンからしれっと本が届いちゃったりしてね。
posted by しゅんすけ at 18:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月19日

「雲の向こう、約束の場所」

体調が復活していないので、さきこをジムに送ってから
ツタヤでなんかビデオでもないかなーって探してると、
別に狙ってたわけじゃないけど、アニメコーナーへ。
う〜ん、なんか何にも考えなくて済みそうな軽い映画でも
観たかったんだけど、ふと手にしたビデオを
何気に借りてみてみる。

「雲の向こう、約束の場所」
最近のアニメは、いろいろと手が込んでて、
一昔前のアニメ時代のしゅんすけには、
高尚過ぎてよう分からんものも多いわけなんだけどね。

このアニメはなかなか分かりやすかったかな。
動きも悪くなかったし、世界観もしっかりしてて、
CG的な透過光の描写が鼻についたけど、好きだね、こういうアニメ。
ストーリー的には、昔々の「オネアミスの翼」を彷彿とさせる感じで
仮想日本の風景が新鮮で良かった。
(でも、どこまでも続いくような草原に打ち捨てられた廃駅の構図は
青森というよりも北海道だよな。最初、どこの話か分からなかった)
仮想日本の話しは最近流行りのようで、某マンガも北海道を舞台にして
戦争に飲み込まれる展開を、他人事のような客観的視点で捉えたのがあったな。
あのマンガは、北海道弁を多用してて、それが日常と非日常・戦争の対比を
明確にしてたように思うけど、今回のアニメでは、青森の中学生の話しのくせに
全然ズーズー弁でないのが、リアリティを阻害してるように感じた。
いや、あんなキレイな景色でズーズー弁とかありえないけど、
そう考えれば、別に青森の話しでなくても、あの「塔」が北海道になくても
全然構わないことになっちゃうわけで、
考えてみれば、叙情的シーンのツギハギのような感じもしなくなく、
ストーリーとしては面白かったけど、
一体アレはなんだったの?とのツッコみも禁じえない部分もある。
調和とミスマッチを融合したような特殊な叙情的風景と、
少年の夢(おいおい)のベクトルだけがあって、観客はいつもスタート地点と
向かうべき方角だけ提示されて、実際その方向へは一歩も進めず、
クライマックスでやっとベクトルの差す方角へ踏み出せば、
そこには何の説明もない結果だけがあり、さらにその先へ無理やり引っ張られて、
結末にはやっぱり叙情的風景に戻るという、なんだかなな展開ではあった。
例えて言うと、イタリアの山奥まで決死の覚悟でボルシチを探しに行く探険家の
苦悩や喜びを描き、台所でいざ調理となったら、物凄い早送りで調理が展開し、
物凄い勢いで食べ終わり、最後にボルシチを食べ終わり満足げな探険家の姿。
どんな料理だったのか、美味かったのかなんてお構いなしで、
スタートと結果だけが提示されるという変な話し。(変な例えだ)

でも、若い頃ってさ、そういう停滞と躍進みたいな理屈じゃない成長みたいのって
分かりにくいようで分かるような感じがするんだよね。
しゅんすけの読み取りの悪さなのか、物凄く微妙な心理の展開を描いているような。
一種文学的と言ったら、言い過ぎかな。
だから、話しとしては不完全でもなぜか共感してしまうしゅんすけなのでした。
有無を言わさず、共感をもぎ取るような映画ってのも、面白いよね。

話しの展開の仕方は、しゅんすけが余り経験したことのないものだったので、
かなり新鮮でした。いや、新鮮なだけで満足してるのかもな。

でも、いいや、気持ち良かったから。
いや、若いゆえの根拠のない期待感っていうか・・・若いって・・・イイネ。
posted by しゅんすけ at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画鑑賞文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

風邪にやられてしまいました。

ここんところ毎年風邪ひいている感じ。
風邪で微熱が続いてる中、しゅんすけを乗せた電車は故障とか事故で
ダイヤが乱れまくり、さきこのお気に入りのジムのインストラクターは
別のジムへ異動となってしまうという今日この頃。

それにして、JRのダイヤ乱れは何とかならんものか。
ほとんどダイヤが乱れない京急に10年も乗ってると、
JRのダイヤ乱れの多さに、呆れつつも憤る。

朝から大事な用事があって、微熱を押していつもより早く起きて
家を出たのに、電車事故のせいで、いつもよりも30分以上遅くに
出社になっちゃったじゃないの。
東海道線に振り替えて、品川から山手線に乗り換えようと思ったら
プラットホームに溢れた人が、JR各線の連絡通路にまで及んでいた。
プラットホームには電車に乗り込もうと、人が押し合い、
阿鼻叫喚の図、二次災害の一歩手前だった。
いや、二次災害で怪我人が出れば、JRもそもそもの事故とか
故障の減少に気合い入れてくれるのかもしれない。
不謹慎な考えだけど、明らかに乗れっこないにも拘わらず、
後ろからグイグイ押されるのに、そう思ってる人もきっといると
感じた。ところどころで女性の叫び声とか聞こえたもんな。

ダイヤ遅れの原因になった乗客には、
物凄い金額の損害賠償が請求されるのに、
被害を直接被った乗客は鉄道会社に損害賠償を請求できないというのは
かなり理不尽だと思う。
ちょろっとネットで探しただけだけど、そういう判例は少ないよう。
どうも乗客と鉄道会社の間の輸送委託契約の中で、鉄道会社は
乗客が購入する切符代=委託料以上の責任を負うことはないんだそうで
電車遅延によってどんなに大きな被害が発生しても、
鉄道会社は切符代以上は賠償する必要はないんだそうで、
なんだかなーな思いを抱きつつ、
38度超の熱に久々にうなされるしゅんすけの茹だった脳細胞は
これ以上には考えられないのでした。
posted by しゅんすけ at 00:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月07日

日曜の昼下がり。

凍える外気とは裏腹に、リビングに差し込む日差しが暖かい。
だんだん春らしい陽気になってきたかな。
(また2月終わりから3月にかけて、冬に逆戻りな天気に見舞われるんだろうけど)
日没の時間も着実に遅くなってきて、今では17時くらいに
マンションの向かいの山に太陽が隠れるようになった。
(冬至辺りでは16時半には日が沈んでいたのにね)

昼下がりの太陽の位置も若干高めなんかなーと思いつつ、
目の前の崖下にある高校の校庭で、少年野球に興じる声を聞いていた。
それにしても、野球の掛け声ってよく分からんね。
打者は塁に出ると、なぜか「リーリーリーリー」とか言ってるし、
野手からは「バッチコイヨー!」の掛け声が飛ぶ。

ふと思った。
この「バッチコイヨー」って何?

いや、昔からよく聞くけど、気にはなってたんだけどね。
相手をけん制する言葉なのか?自分の力を誇示する言葉なのか?
野球をほとんどやらないしゅんすけには、何のことかさっぱり分からない。
多分、「コイヨー」は「来いよー」のことと思われる。
とすれば、「かかって来いよ!」的に相手をけん制しつつ
自分の力を誇示する意思が感じられるわけで、
それはまさに勝負の瞬間、ピッチャーがバッターに向かって投げる瞬間に
誰かが誰かに向かって言う言葉なんだろうね。
では、「バッチ」とは?

しゅんすけがまだ日本語もよく知らない子供の頃、
耳から入った言葉を、脳みそで再構築して、
何とか世界のありようを理解しようとしてた頃、
(要は理屈抜きで聞こえた言葉を聞こえたとおりに認識してた頃)
「バッチコイヨー」は「マッチコイヨー」と聞こえていた。
マッチとは何か。
幼かりし日、しゅんすけの中でマッチとは近藤○彦を指していた。
耳から入った言葉をその時点で脳みそに蓄積されている少ない知識と結びつけることで
取り巻く世界を理解しようとしてた幼いしゅんすけは、
「マッチコイヨー」を「近藤○彦、かかって来い」と解釈した。
しゅんすけが幼い当時、マッチと言えば、不良の代名詞。
なんせ「怖いもの知らず、ケンカなら負けない」と嘯いていた彼ですからね。
そんなマッチがかかって来たって怖くないぜという意気込みだと思ったわけ。
今思うと恥ずかしくも哀しい勘違いだわ。

あれから十数年。
さすがに今の少年たちが、マッチの威を借りて、相手をけん制するのは
時代的におかしいと思い、
(今なら誰だ?ボブサップか?「ボブサップコイヨー」ってどんなやねん)
野球のことならこの人に聞けとばかり、さきこに何気に質問してみた。
すると、冒頭のとおり、「マッチ」ではなく「バッチ」だったわけだ。
聞き違いって怖いね。
ま、ノータリンなしゅんすけにはありがちな話しですが。
さきこには相当笑われてしまいました。哀しい。

いや、そんな哀しい勘違いは置いておいて、
ところで、バッチって何よ?
バッターがピッチャーに対し、「どんな変化球だってバッチリ打っちゃるもんね!」なのか
野手がバッターに対し、「どんな打球だってバッチリ取っちゃうもんね!」なのか、
どちらにしても、バッチリをバッチと略すのは、言葉の座りが悪すぎるし、
薄ら寒さを感じるほどセンスがない。
再び哀しい勘違いを犯すわけにはいかないので、笑い転げるさきこに聞いてみる。
さきこ曰く「バッチはバッターのこと」だそうです。

なるほど、バッター=バッチね。
・・・って言うか、どうなのよ、それ。
batter(バッター)をどう略せばバッチになるのよ。
ピッチャーがpitcher=ピッチだから、バッターはバッタだろ?
「バッタコイヨー!」・・・カッコ悪いけど、理屈に合ってる。
なぜバッチなんだか。

そこで記憶が蘇る。
しゅんすけの弟が割と少年野球に熱心で、日曜日と言えば朝からユニフォームを着て
バットとグローブを持って、出かけていったものだけど、
彼が少年野球で覚えてきた単語を、しゅんすけも影響を受けて使ってたりして、
友達と塩ビバットとゴムボールで野球ごっこをする際に
バッターボックスに立ち、「マッチコイヨー!」とハリきってたような気がする。
バッターが何ゆえ「マ(バ)ッチコイヨー」と叫ぶのかと、今は思うけど
それを聞いた野手が一様に凍り付いてたような気がした謎が、
十数年の時を越えて、今まさに解けました・・・って解けんの遅すぎ。

しゅんすけの目の前に広がる世界は、まだまだ理解不能な事象が存在する。
それらの事象は、どんな理不尽なことで納得できなくても、
しゅんすけに対して強引に理解を強要するのだ。
きっとこれからも、バッターをバッチと発音して憚らないに匹敵する理不尽な
世界をしゅんすけは生きていかなければならないのだな。
バッターをバッチと言うくらいなら、「マッチコイヨー」の方が
全然分かりやすいと思うしゅんすけの目の前で夕陽は真っ赤に燃えていた。
posted by しゅんすけ at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月01日

ドライな遺伝子・ウェットな遺伝子

ヒトの耳垢は、乾燥(ドライ)してたり、湿って(ウェット)たりと
個体によって差があるんだけど、
その個体差を決定付ける遺伝子が、ついに特定されたんだそうな。
どうも16番目の染色体上にある遺伝子に乗っているDNA塩基のうち
ひとつがA(アデニン)かG(グアニン)かによって、ドライかウェットかが
決まるんだそうな。
耳垢がどんな性質で現れるかについては、
ウェット型が優性、ドライ型が劣性というメンデルの法則以上のことは
分かってなかったようだけど、
それがたった1個の塩基の差でしかないというのは、興味深い。
(竹か麺棒か、耳掻きの好みを左右するほどの大きな形質の違いが
たったひとつの塩基(ゲノム)の違いなわけだから)
(泉岳寺の義士祭の夜店で、
昔ながらの口上とともに売っていた江戸時代から続く高級耳掻きを思い出す)

ニュースによると、元来ヒトはウェットだけだったそうだね。
2万年前にシベリアで突然変異が起こって、耳垢がドライなヒトが誕生し
それがずっと保存・継承されてきたんだそうな。
しゅんすけの耳垢はドライなんだけど、
2万年前から綿々とドライ形質が受け継がれてきたと思うと、なんか感慨深いね。

しかもさ、ドライの形質って、劣性遺伝子じゃないですか。
劣性遺伝子がここまで広がってこられたのは、生存のうえで何らかのメリットがあって
形質上何らかの進化圧がかかったからのような気がしてならないんだよね。
たとえば、血液型でも、O型は劣性なわけでしょ。
O型に何らかのメリットがなければ、優性であるAB型の比率って物凄く高いハズだし、
O型なんて既に絶滅しているかもしれない。
最近読んだ本によると、どうもO型の血液成分には、ある感染症に耐性があるんだそうで
(確かマラリアだったか?)
そういう意味では生存上の優位性があるので、遺伝的には劣勢のO型が
絶滅しないそうな。
(O型が絶滅しないので、中間型のA型・B型が残ってるという説。
O型が駆逐されたら、物凄い勢いでAB型に特化していくと思う)

同様に劣性のドライ型耳垢が残ってるのも
生存上の何らかの理由があるからではないかと思うにつけ
今まさに進化へ繋がる途上=進化の現場にいるわけだ。
まさに鳥への進化途上にあるトカゲか首の短いキリンといったところか。
(耳垢の話しを書いてると、耳が痒くなりますが)

※DNA上の1塩基の変異が、形質に大きな変化をもたらすと言えば、
以前NHKスペシャルでやってたけど、ポルタトーリがそうだよね。
イタリアの北部の山に閉ざされた小さな村で
15世紀頃、DNAの一部に変異を持った男性が生れた。
この男性のDNAは、他のヒトと塩基一文字分だけ異なっていて、
たったそれだけの変異が、脂肪をより多く分解できる酵素を作ることができた。
今でも少数ながら受け継がれていて、
この酵素を持つヒト(ポルタトーリ)は世界に400人程度しか存在しないらしい。
みんなこの15世紀の男性と繋がっているわけ。
今ではミトコンドリアDNAによって、血縁関係がかなり詳しく分かったり
その変異頻度から逆算して突然変異の起源が分かったりするんだけど、
ポルタトーリの起源については、村の教会に出生記録が残っていて
現在のポルタトーリを辿っていくと
1654年に出生したある男性に行きつくんだそうな。
今を生きる人々が、教会の記録で300年以上前の人と繋がっているというのも、
別な意味で感慨深いよね。
(いつの既述かと思ったら、2002年の日記だったよ)

※進化圧ってのは、ともするとヒトを頂点とする進化系統樹の思想に繋がる危険があって
某グールド先生は、とても注意深く使っていたと思う。
(進化の樹はヒトに向かってるわけじゃない。NHKスペシャルでもたまに
この手の言葉のアヤを犯しちゃうようだけど)
DNAの突然変異という意味での進化は全くのランダムで発生するわけで、
それがいくつもの偶然から形質として表現し、生存の上で優位に立った時に
その形質が存続したり強化されたりする圧力が働くわけだからね。

そんなわけで、いつもより耳掻きに余念のない宵なのでした。
posted by しゅんすけ at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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